【京都市電】壬生車庫の今昔
今回は、京都市電の大拠点であった、壬生車庫・交通局前の今昔をお届けします。鉄道雑誌の記事などで有名な「奥野利夫」氏が撮影された、昭和20~30年代の京都近辺の鉄道写真と、私の撮影した最近の画像により、京都の鉄道の今昔を対比しています。 やぶおさんのHP「寝台券は売れ切れ満席」の掲示板との共同企画になっていまして、掲示版の約一ヶ月後に私のブログで、Update版をお届けしています。 |
![]() 画像管理者の掲載許可済。無断転載を禁ず。(C)奥野利夫 |
元投稿には、やぶおさんの『第九回の今夜は昭和31年の京都市電です。貨物用の路面電車です。線路工事用の工具でも運んだのでしょうか。運転席は吹きさらしで、夏は涼しそうです。運転手さんも、なんだか楽しそうです。 |
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今の写真は、奥野氏の写真の位置からすこし引いて、南乗り場付近から車庫の全景 を写しています。バスに隠れていますが、グレーとレンガ色のビルの立っているところがバス停(電停)です。旅館や商店は事務所やマンションに変わっています。 この投稿にはやぶおさんの『今まで登場した写真はそれとなく昔の面影が発見できましたが、この写真を見る限り、高いビルが建ち並んでしまい、京都に不案内の者にはここが奥野氏の撮影地点であることを気がつかずに通り過ぎてしまいます。 奥野氏の写真では道が相当広そうに感じますが、現在高層ビルが建て込んでくると、道は思いのほか狭く感じます。 』とのコメントが付いています。 市電廃止後、車庫の敷地は一部がバスの操車場に転用された以外、ご覧のように 公団住宅に転用されました。バスの車庫のところがかつての南入庫線、その横の車庫の事務所はやはり市電の運輸事務所でした。そのうしろの高層マンションの位置が北入庫線です。南北の入庫線は構内でループ線を形成していて、車両の方向転換などに利用されていました。 交通局舎も地下鉄の天神川延長にともなって、右京区へ移転が発表され、京都市電 発祥の地から市電の遺構が消え去る日も近いようです。 |
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市電の四条線・千本線・大宮線が廃止されたときは、私はまだ中学生でした。その頃は子供で、市電の廃止よりその代替バスに乗って、軌道が無くなった道路を走ることに喜びを感じてました。今考えると写真の一枚でも撮っておけば良かったです。 |
次回はトロリーバス西大路四条付近の今昔をお送りします。 |
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こんばんは。
初めておじゃまいたします。
2006年7月1日付け貨物電車の背景に、見慣れた風景とM旅館さんがはっきり写っており、懐かしく拝見いたしました。
昭和30年代、旅館と北側ビルの間に坊城通りに抜ける小路があり、その南側に長屋が数棟ありました。これらの長屋の大家さんがM旅館さんで、その内1軒に母方の伯父一家が住んでおりました。
小学生の頃、長期の休みにはほとんどこの親戚宅に滞在し、年の近い従兄弟たちと遊んでおりました。やや長じて一人で京都に行けるようになった頃、「京都駅から市電11番に乗って、壬生車庫前で降りるんだよ。」と念押しする母の声を思い出します。当時は戦後ベビーブームの影響で、年の近い子供が沢山おり、坊城通り西側の材木置き場で三角ベースなどもしていました。
件のM旅館さんは商人宿の雰囲気でしたが、家賃収入で充分であったせいか、私はお客さんの姿を見たことがありません。私より数歳上とみられるご子息が剣舞を習っておられ、町内のお祭で舞われた白虎隊を鮮明に覚えております。
今は遠い昔の思い出で失礼いたしました。
投稿: ZEDEK | 2015.01.10 01:43
>> ZEDEK さんへ
こんにちは。
はじめまして、ようこそおいでくださいました。
この古い京都市電の写真を撮影された、奥野さんも千本三条の電停ちかくに
お住まいで、四条大宮から二条駅付近のなつかしい写真をたくさん写されて
います。
わたしの記憶に残るのは、昭和40年代くらいになってからですが、まだ
この写真の情景のままだったと思います。たまに車庫前で乗り換えになると
一本電車を遅らせて、車庫に出入りする電車を飽かずにながめていました。
二条駅の貨物駅から、まだ残っていた山陰線のSLが黒い煙を吐き出し
ながら、シュッポッポーと、走っていくのを見るのもたのしみでした。
壬生地区も、バス通りは大きく変わりましたが、一歩裏通りに入ると、まだ
ふるい町家が残ってますねぇ。さいきんは、 武信稲荷神社が坂本龍馬と
おりょうさんのデートの場所として、有名になったりしてますね。
ときどき、諸先輩がたかたいただいた古い写真を載せたりもしております。
また、お暇な折にお越しください。
投稿: なかっちょ | 2015.01.10 10:10