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「京都の鉄道今昔」秋冬ダイヤ第八便は、江若鉄道浜大津駅からお伝えします。このシリーズは、やぶおさんのHP「売り切れ満席」の掲示板 との共同企画でお送りしております。こちらも合わせてご覧ください。 |
![]() 画像管理者の掲載許可済、無断転載を禁ず、(C)奥野利夫 |
この写真には、もと投稿の管理人様の 『八回目の今夜は「江若鉄道」を取り上げました。 2両の気動車がホームに停車中です。撮影は真夏でしょうか。夏の陽がふりそそぎ、窓は全部開け放たれています。1両目の気動車は国鉄キハ04タイプのようです。2両目はどうやら流線型のようで、個性的な顔をしていそうですが残念ながら、顔までよく分かりません。 撮影場所も特定できませんが、側線が何本も並び、かなり大きい駅のように思います。駅舎のたたずまいから「浜大津」を予想していますが、鑑定はいかに。 大阪や京都などの大都市に近いにもかかわらず、こんなローカル色あふれる非電化鉄道が存在していたことに驚きます。』 とのコメントが入っています。 |
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これに対して、私から上の写真とともに、 『管理人様のご推察どおり、江若の浜大津駅からお伝えします。 先週にご紹介した、京阪の浜大津駅に写っております駅舎のホーム側からうつした写真です。 ご覧のように、旅客用のホームは一本しかありません。その次の線路が機回し線で、機関車の付け替えに使用していました。右手に踏切が写っていますが、子供のころ客車列車が浜大津に到着後、機関車を切り離して膳所側に進んで、折り返しこの機回し線を通って、今度は今津側に引き上げ、また戻ってきて客車の反対側に連結するのを見ていたことがあります。この間に何度も踏切が長時間閉まり、人も車もイライラしながら待っていました。 夏休みに大津博物館であった江若鉄道の回顧展の展示で知ったのですが、この浜大津駅は敷地の大半が国鉄の所有で、江若の持分は、駅舎と旅客線と機回し線の部分だけだったそうです。 そして手前の部分は国鉄の貨物駅で、先週に懐古趣味様やなまちゃん様からもコメントいただきましたように、梅小路の8620が膳所駅を基地にして入れ替えと小運転に従事していました。 撮影は、夏のようですが、当時は(今もですが)江若の沿線の琵琶湖西岸には水泳場が点在して、シーズン中には、客車をかき集め、それでも足りなくて国鉄から古い客車を借りて水泳客をさばいたといわれています。写真の列車も満員の盛況のようです。江若の気動車の中には総括制御装置の無いものも多く、その場合2両以上連結して走る時は、それぞれの客車に運転士が乗り込み、ブザーの合図でクラッチを踏みギアをチェンジしてアクセルを踏み込んで運転したそうです。時にはクラッチをつなぐタイミングが合わず、前後の車両に、衝撃を与えながら発車することもあったそうです。 今の写真は、少し引いた位置から写した元江若浜大津駅の位置に立つ、再開発ビルとバスターミナルの写真です。今、江若を偲ぶものといえば、江若バスくらいのものでしょうか?画面中央を横切る道路付近から向こう側が貨物駅と江若の駅の敷地になります。江若が走っていた頃は、手前の駐車場付近はまだ湖面で、観光船が浮かんでいました。』 とのコメントを返しています。 |
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そうしましたら、管理人様から「江若鉄道の海水浴列車の思い出」という題で、上の写真を貼っていただきました。 『なかっちょさまのお話に出ていた江若鉄道の海水浴列車をご覧いただきます。 C11と思われる蒸気機関車が、江若鉄道の客車を牽引しその後ろには、大キトのスハ32が連結されています。これが国鉄からの乗り入れ客車でしょうか。 サボには間に合わせで「高島町ゆき」と書いてあるように思われます。 地図で確認しますと、大津市の北に高島市があり、おそらくそこに水泳場があったと思われます。 国鉄の客車は膳所から乗り入れてきたのでしょうか。この列車も窓が全部開け放たれ、レジャー客で満員のようです。』 とのコメントが付いています。 私からは、 『浜大津で江若を見たときの思い出の写真が出てきました。 「昭和40年8月、びわ湖ヘルスセンターにて」との書き込みがあります。小生小学校1年でした。 今の地図でいうと、JR湖西線の西大津駅からびわ湖側に進み、びわこ競艇場のある付近の湖岸です。今行くと、とても泳げるようなところではありませんが、当時は遊園地や旅館も並んで手軽なレジャー地区でした。 ちなみに、懐古趣味様の写真の滋賀駅が最寄り駅になります。私たちは京都からの直通バスで向かったと思います。 奥野氏の写真の「高島町駅」は現在のJRの近江高島駅に相当し、萩の浜、近江白浜といった現在でも賑わっている水泳場があります。余談ですが、百貨店の「高島屋」の商号は、近江商人だった初代がこの近江国高島郡の出身から屋号にしたものです。』 というコメントをつけて下の写真を返しています。 |
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次回は京都市電の今昔をお送りします。 |
午後の2回目のイベントトレインに乗ってみました。 |
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去年は、車庫の留置線から出発し、入出庫線を転線して本線へ出ましたが、今年は、駅のホームからの発車となりました。非営業線を乗れると思ったのにガッカリです(^^ゞ |
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車内は、鉄道ファンらしき人は少なく、ほとんどが親子づれでした。一転して、沿線は、カメラを構えたファンでいっぱいでした。見知った同好者の顔も見えます。駅のホームや踏切では一般のひとが怪訝そうに臨時電車を見送っているのが対照的(笑)です。 二軒茶屋では、又してもホームに下ろされて電車のみ転線です。分かっていれば、去年の内に乗っておくんだった・・・・・・・・ |
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修学院へ戻ってきてホームから車庫へまた移動。そのあと洗車機を体験するため車庫の奥へ。 |
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車内の様子。乗車は150名程度でざっと一杯といった感じです。車内で景品の抽選会がありました。私の札は99番、当たったのはちょうど100番。一番違いで景品を貰い損ねました(^^ゞ ちなみに景品は叡電グッズとか。 |
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運転台の様子。スペースが狭くて、マスコンが斜めに配置されているのが特徴です。 元阪神のデオ500形時代から使われているものです。 |
今日の帰りの改札口で、こんなかわいい掲示板をみつけました。 毎年「ひらかた菊人形」の宣伝をみかけるたびに、秋を感じさせてくれましたが、それも今年からはありません。 菊人形をつくる職人さんがいなくなって、中止に追い込まれたそうですが、もう復活は無理なのでしょうか? と、書きましたが「ひらかたパーク」のHPで以下の記事を見つけました。 菊人形回顧展 ~その歴史と匠の技~ 菊人形制作に携わる職人の技と歴史にスポットをあて、閉幕した菊人形を文化的および芸術的価値という側面から振り返る回顧展です。菊人形の歴史や名場面、菊師をはじめとする職人の作業風景を、パネルや資料映像を交えて解説します。長年にわたり受け継がれた園芸文化の粋、「ひらかた大菊人形」を様々な切り口で紹介します。 ■開催期間10月28日(土)~1110/30 追記 |
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叡山電鉄では、今年も11月の紅葉狩りのシーズンに合わせて、秋ダイヤで運転します。 内容は、去年と同じようで、実施日のみ変わっているようです。
詳しくは、叡山電車のHPへ | |||
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京都駅前バスターミナルで発車待ちする京都バスです。 べつに何の変哲もないスナップのようですが、行き先表示をよくご覧ください。 「(18)清水寺・銀閣寺・大原」になってます。まるで三題話(笑)のように京都の代表的な観光地を結んでいます。さぞかし観光客で溢れてるだろうなとも思われそうですが、さにあらず車内はあまり混雑していません。 |
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その理由は、この系統のバスは土日だけ運行それも、一日一往復しか走らない幻のバス(笑)だからです。 かつては東山通りを経由する京都バスは大原と京都駅を結ぶメインの系統でしたが、四条通、川端通り経由がメインになり本数が激減しました。 いっときは、大原と東山・洛北の観光地と京都駅を結ぶ観光ルートとして宣伝された時期もありますが、一時間に1、2本の運行では使い勝手が悪く、いつのころからいわゆる免許維持路線、幻のバスになってしまいました。 けっしてコースは悪くないので、京都バスのいま一度の奮起を期待したいところです。 (2006.10.21. 10:28am)撮影 ←時間にもこだわっています(^^ゞ |
「京都の鉄道今昔」秋冬ダイヤ第七便は、京阪浜大津駅前からお伝えします。このシリーズは、やぶおさんのHP「売り切れ満席」の掲示板 との共同企画でお送りしております。こちらも合わせてご覧ください。 |
この写真には、管理人様の 『今夜は、京都市内から飛び出してしまいました。 写真には「浜大津」とありますから、大津市内の一枚と思います。京都の鉄道今昔の番外編ということでお許しください。 電車は京津線でしょうか。200形という正面5枚窓の電車です。だだっ広い併用軌道を行く古色蒼然とした電車、そして、昭和30年代のバスや乗用車の姿が気に入ってしまい、無理矢理私の独断でラインナップしてしまいました。 写真のバックは大変明るく開放的な感じがしますが「浜大津」という駅名どおり、後ろには琵琶湖が広がっているのでしょうか。200形という古い電車をけっこう気に入っています。』 という、元発言が付いています。 |
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これに対して、私からは上の2枚の写真を添付して 『今の写真を見てもらうと分かりますが、この付近は再開発で景観が大きく変わりました。当時を知る人でも、ひさしぶりに浜大津にやってくるとあまりにも変わってどこがどこか判別が付かなくなります。 パノラマ写真の左手の「KOBAN」とかかれたビルの位置がかつての京津線の浜大津駅でした。ここはスイッチバック駅になっていて石山寺方面へ直通する電車は、前後を転換して発車していきました。 交差点の中央の三角屋根のバスターミナル付近が、江若鉄道の浜大津駅です。駅の向こう側に旅客用ホームと貨物駅がありました。貨物駅は国鉄の駅でした。浜大津-膳所間も国鉄の貨物線(その昔は旅客列車も走っていたそうです。)を借り受け、国鉄と京阪の3線軌道になっていました。京阪がこの区間を買い取るまで、3線軌道が残っておりました。国鉄のSLが入換をしている写真を雑誌などで見かけることがあります。 そして、画面の右手の総合駅の位置が、石山坂本線用の浜大津駅で浜大津(西口)と呼ばれていました。接続の都合で、京津線と石坂線のホームを徒歩連絡で乗り換えることがありました。その場合は、この昔の写真のバスの止まっているあたりを歩くことになります。面白いので、ここを通る時はわざわざ徒歩連絡の列車を選んで乗ったりした思い出があります。 』 とのコメントを付けて返しています。 |
再びも奥野氏の写真と共に管理人様より 『昭和37年当時は写真右手に、タクシー乗り場や江若バスと京阪バスの乗り場が同居して建っていたことがわかります。 「浜大津」のサボをつけた82形電車が、今駅に入り込むところです。 この82形電車は裾を絞ったスマートな形で、この電車なら管理人も見覚えがあります。昭和37年当時は、まだデビウ直後だったのでしょうか。古い電車の中で、82形はひときわ目立ったものだと思います。』 とのコメントが出ました。 |
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私からは、上の俯瞰位置から写した写真と大津祭りの写真を送り、 『反対から俯瞰するとこんな感じになります。 総合駅が出来た時に、西から北へ曲がっていた線路は、西から南にまがり北から直進してきた線路といっしょになって駅構内へ吸い込まれるように引きなおされました。 この4両で60mにもなる路面電車が大津市内の併用軌道を走る様はなかなか圧巻です。今月8日に行なわれた大津祭りの日には、電車と祭りの山車が並走するシーンが見られました。 大津祭り写真は10年ほど前のまだ京都側が地下化される前の頃の写真です。』 とのもコメントを返しています。 |
次回は江若鉄道の浜大津駅構内からお送りします。 |
「京都の鉄道今昔」秋冬ダイヤ第6便は、第5便でお伝えした内容と合わせて、「近鉄(奈良電)と京阪の丹波橋駅での相互乗り入れの遺構を探る」のテーマでホームページのコンテンツとしてお伝えします。 下の「HOMEアイコン」から「我楽多館」→「丹波橋相互乗り入れ」とお進みください。 このシリーズは、やぶおさんのHP「売り切れ満席」の掲示板」との共同企画でお送りしております。こちらも合わせてご覧ください。 | |
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丹波橋駅に向けて連絡線を走る奈良電の1300型京都行き | 丹波橋駅に到着する京阪の1300型他の4連. 偶然同じ時期に、同じ駅でまったく形の違う同名の電車がみられました。 関係有りませんが、阪急にも同じ頃1300型がありました。写真はここ。 |
次回は京阪浜大津駅付近の今昔をお送りします。 | |
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いまし方、カウンターが「22222」になりました。
「京都の鉄道今昔」秋冬ダイヤ第5便は、近鉄(奈良電)丹波橋からお伝えします。このシリーズは、やぶおさんのHP「売り切れ満席」の掲示板 との共同企画でお送りしております。こちらも合わせてご覧ください。 |
画像管理者の掲載許可済、無断転載を禁ず、(C)奥野利夫 |
この元投稿には、管理人さまの 線路が4本もある大きなジャンクションを渡り線を通って電車が駅に着こうしています。481形という電車ですが、サボに文字が見えます。リサイズ前の写真を拡大すると「京都 橿原神宮」と読み取れましたので近鉄電車と判断しました。 この電車や撮影場所についての情報をお持ちの方の書き込みをお待ちしています。』 とのコメントが入っています。 |
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これに対して、私から 『こんばんは、今日の今昔は、また【京阪】の丹波橋駅からです。わざわざ【京阪】と断ったのは、【近鉄】にも丹波橋駅があるからです。でも、奥野氏の写真の電車は、管理人様の説明にもあるように近鉄の電車のようです。 前に京阪の丹波橋の今昔をお送りした時に話題になりましたので、ご存知の方も多いと思いますが、このころは京阪と近鉄(当時は奈良電鉄)が丹波橋駅を介して相互乗り入れしていました。 この乗入れは、戦後すぐに始められ、1968/昭和43年に、近鉄が1500Ⅴ昇圧のため中止になるまで続けられました。 当時の時刻表などを見ると、京阪三条と近鉄奈良、近鉄京都と京阪宇治などの系統があったようです。また乗り入れしない奈良電(近鉄)の電車も京阪のホームを共同使用していたため、同一ホームで乗換が出来て、今よりは便利だったようです。 ただ、奈良電の京都行きの列車は、奥野氏の写真にあるように京阪の下り線を横切って、京阪の上りホームへ進入するため、信号待ちが多く、『よく運転士が警笛を鳴らして、信号係へ「はやくポイントを切り替えろ!」と催促していた。』という光景が見られたと、市民新聞の伏見区の昔話で読んだことがあります。 駅の構内は、当然乗り入れ当時の線路配置は残っていませんが、今の写真の一番右手の安全側線がかつての奈良行きの線路の跡です。 』 とのコメントを付けてアップしました。 |
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奥野氏の写真に写る「481番」の電車を、書き込みしたときは知らなかったのですが、この電車は、『モ460型(461~482)という形式』で、『近鉄奈良線の前身大阪電気軌道(かつては大軌とよばれていました)の前面五つ窓の木造車200形260形の鋼体化車で、正面2枚窓の非貫通車とお写真の貫通扉つきの2種類がありました。この電車客室窓や扉に種車の部品を多用したため近鉄の鋼体化車の中では比較的原型の面影を残している存在です。古臭い感じがするのはその所為です。』 素性の車であることを教えていただきました。なにわさま、懐古趣味様にお礼申し上げます。 その他、近鉄・京阪乗入れ当時の話題や現状報告(廃線跡巡り)が掲示板で交わされました。ぜひ続きをお読みください。ただしこの掲示板は話題が進むのが早くて、丹波橋の話題ははるか向こうへ行っている場合がありますのでご了解ください(笑) |
次回も丹波橋相互乗り入れの続きをお送りします。 |
最新収集した、カード・チケット類の中からいくつか紹介していきます。ある程度まとまったら、HPの「切符館」で分類→公開する予定ですが、いつになることやら(^^ゞ
2006年9月までの収集品 (カード)
図柄 | 名称、発行日 発行箇所、金額 |
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スルッとKANSAI ラガールカード 神戸線9000系 新造記念 2006/08/19 西院駅 1000円 記念乗車券は ココ |
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スルッとKANSAI ラガールカード 橋シリーズ 流れ橋(京都府) 2006/08/19 関大前駅 1000円 この橋は、時代劇の ロケ地で有名です。 |
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トラフィカ京カード 京都市学校歴史博物館 所蔵品シリーズ 大原女 由里本 景子 2006/09/05 山科駅 3000円 子供の頃は、こんな格好をしたおばさんをよく見ました。最近は、貸衣装で大原女に変身するサービスをやっているそうです。 |
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大阪モノレール 時差回数券 2006/07/09 南茨木駅 3200円 頂き物です。 |
「京都の鉄道今昔」秋冬ダイヤ第四便は、阪急「西京極」駅からお伝えします。このシリーズは、やぶおさんのHP「寝台券は売り切れ満席」の掲示板 との共同企画でお送りしております。こちらも合わせてご覧ください。 |
画像管理者の掲載許可済、無断転載を禁ず、(C)奥野利夫 |
元発言には、管理人さまの まわりは、緑が多く、阪急電車がなければ、どこかのさわやかな高原の駅とも勘違いするぐらいのすばらしい環境です。 ホームの端に、駅名標があり「西京極」?と読めそうです。 |
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私からは、上の写真に、 京都で「西京極」といえば、すぐに「運動公園」という答えが返ってきます。野球場、 野球場ではプロ野球の公式試合、陸上競技場では高校駅伝や女子駅伝が開かれ、球技場はJリーグの京都パープルサンガのホームグラウンドになっています。運動公園の利用者向けの臨時改札口も設けられています。最近は、昼間の急行が高槻市 電車の話から外れますが、「西京極」の地名は前回の「河原町駅」の今昔で出てきた「新京極(東京極)」と対になっています。いまから1200年以上前、京の都が開かれたとき、今の千本通り付近を中心として、この付近が都の西の境界線とされました、東の境界は鴨川で今の河原町通り付近となります。しかし都の西側はあまり発展せず、都の中心はだんだん東のほうへ移っていきます。阪急京都線が開通した昭和初期の地図をみても、西院駅から桂方面にかけては、街道沿いをのぞいてほとんど田畑になっています。昭和39年の撮影当時でも、まだ、京都市内とは思えないのどかな雰囲気が残っていたようですね。 今の写真を見ると、ホームが延長され、上屋も新しくなっていますが、おそらく開業当 |
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さらに、上の写真に、 阪急京都線は、京阪間を高速電車で結び、ゆくゆくは、名古屋方面へも延長しようとした私鉄新幹線とも言うべき計画に基づいて設計・建設されました。各駅も待避線の用地を余分にとったり極力、カーブや勾配を減らして高速運転できる線形になっています。 特急「つばめ」を追い越す「P-6」の話は、昔の阪急京都線の話をすると必ず語ら 特に歴史をひもといた記述はなんとも言えません。「西京極」の「極」とは南極、北極と同意の意味があるのですね。 それにしても駅はうんと立派になりましたね。阪急の電車ですが、2300系など従来の電車に比べ最新の9300系などやけに、天地方向に高く見えるのですが 阪急の名古屋乗り入れ構想の話広軌の鉄道だけに実現していたら相当高速な特急電車が走っていたでしょうね。夢のある話をありがとうございました。』 |
このあと、奥野氏の写真に写る「2863号車」にまつわるクイズ、阪急京都線のラインナップ(2300系から9300系まで)の写真と記事のコメントがたくさん交わされました。 このあたりのやりとりは、「寝台券は売り切れ満席」の掲示板でお楽しみください。 |
次回は近鉄(奈良電)の今昔です。 |
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