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2009.06.27

【叡電】元田中駅の戦前の旧駅の跡

叡電の元田中駅が昭和18年の京都市電東山線の高野~百万遍間開業時に、特認で平面交差となり、合わせて、東山通りをはさんで上りは東側、下りは西側に移転したのは、良く知られているところです。

それでは、もともとどの辺に駅があったのかは、資料によって単に「出町柳寄り」とか「数百メートル出町柳寄り」とか書かれているだけで正確な場所を示す資料には行き当たってませんでした。

数日前、たまたまよくお邪魔しているサイトで、戦前(1944年頃発行-内容は1940年前後が最終か?)の京都市内の英文地形図を紹介していただきました。

http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6533951n.jpg

それを見ると、「EIZAN ELECTRIC RAILRORD」の「Moto-tanaka Sta.」は、「ICHIJOJI DORI Crossing」の「Chayama Sta.」寄りにあったことが確認できました。
これは、現在の出町柳8号踏切と9号踏切の間になり、道路名も旧一乗寺街道として、出町柳から元田中、茶山を経て、一乗寺、修学院、八瀬へ続く、旧街道として残っています。
*

Mototanaka09
この踏切が、一乗寺街道です。ここから下り(八瀬方面)にホームがあったようです。
現在の下りホームとは数十メートル、上りホームとも100メートルほどしか離れていません。
*
Mototanaka09a
出町柳方を見たところです。電車の位置が旧下りホーム、右端が現在の下りホームです。位置的に、移転というより、ちょっと横へ移動といったところでしょうか?

旧ホームの位置と併走道路にはまったく隙間がなく、あるいは移転時に不要な用地を道路用地として提供したのかもしれません。

実は、「現駅より数100m西にあった。」という、某電子百科事典の記述を信じて(^^ゞ、前に、ぜんぜん別の場所(出町柳4号踏切と5号踏切の間)で、遺跡さがしをしたことがあります。
現地へ行くとわかりますが、比較的広い線路脇のスペースがあり、いかにも廃駅跡に見えてしまうんですね(笑)

ともあれ、長年の疑問が解消してめでたし目出度しです。
pinboke_entry

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コメント

このような資料に出合う場合と、出合わない場合とで全然風景の見方が変わるのでしょうね^^。何はともあれ、調査お疲れ様でした。

なるほど!
西側の踏切を挟んで反対側にあったのですね!
私も漠然と「どの辺りやったんかな?それらしいスペースも無いし、上下ホームの位置が違うから、両方とも下りホームの位置にあったのが現在位置に変わったのを誤って表記されているだけなのかも?」って思っていただけでしたので、このご調査は「腑に落ちた」感覚で読ませていただきました。
何事も調査してみるものですね(^^)
叡電は小さいながらも他にも八瀬の終戦前や鞍馬の開業後まもなくのみで一時期あった仮駅の位置や木野駅付近にあった鞍馬電鉄の車庫の正確な位置など、まだまだわかっていない所もありますので、私も発見してみたいものですf(^^;)

りばてぃさんへ

古地図を見ていると、今との違いに驚いたり、新発見があったり、笑ってしまったりと、楽しいです。戦前の元田中以遠は、「田んぼの真ん中を田舎電車がのんびり走った。」と、よく聞かされますが、実際、田畑や竹藪のマークばかり続いて、人家の密集地が少ないのには、おどろきです。このような農村地帯で、電車は商売になったのでしょうか?

ともっちさんへ

今の駅のすぐ西側から移ったとは意外でした。もっともその頃、駅を作るとしたら、御蔭通りか一乗寺街道の2箇所しか候補がないので、当然といえば当然でしょうけれど。

あと、高野の左京郵便局付近にあったとされる、市電下鴨集荷場の貨物引込線跡の確定が。次の目標です。

こんにちは.

なんと天寅の前が元・元田中だったのですか・・・.
確かに出町柳から歩いていくと(折りしも昨日天寅に行ってきました),あの部分が最初に線路際を歩ける道になりますね.
(出町柳すぐ横のマンションは別とすれば)

そう考えるとあの道は用地転用だったのでしょうか.

ギヤジローさんへ

私も、天寅の前とは思いもよりませんでした。ただこの一乗寺街道は、実際に歩いてみると立っている民家の雰囲気から昔からの道だとわかりますので「何かありそうだ。」とは、思っていたのですが(^^)v

東山通りに続く細い線路沿いの道は、新道が出来たときに、旧駅との連絡通路として作ったのかもしれませんね。
いろいろと想像できて楽しいです。

戦前の地図を見れば一乗寺街道が本来の道だということがよくわかります。志賀越のように京大のキャンパスによって消滅したのとは違いますから。

さて、この地図は1944年に合衆国陸軍で製作されています。戦前発行されていた1万分の1、2万5000分の1の地形図、鉄道路線図、観光案内図を翻訳して製作されています。
目的?もちろん攻撃用ですね。


下鴨集荷場は赤の宮の住宅あたりが臭いと思うのですが。

この米軍の地図の存在自体は、昔から本で知ってましたが、まさかネットで見られる時が来るとは思いませんでした。

市電の下鴨集荷場は、左京郵便局付近にあったことは間違い無いのでしょうけど、旧大原街道の東か西かがはっきりしません。旧鐘紡京都工場の社宅建設と川端通りの拡張、そして鐘紡廃止後の再開発で、今の道路と当時の地形がどれだけ一致してるか調べるすべもありませんし。

古い地図か京都市の古文書を調べればわかるかもしれませんが、簡単にわかるならすでに誰かがどこかで発表していそうなもんですよね(^^ゞ

北山の資料館に米軍の空撮写真があるのですが、御池通りや五条通の建物疎開は調べたのですが、高野あたりは調べてなかったです。

国土地理院で公開している昭和21年の左京区の航空写真は見てみましたが、解像度が悪くて、市電の軌道敷がはっきり確認できません。
どうも、今の左京郵便局と左京土木事務所の間から京都バスの車庫の裏手にかけてが怪しいのですが????

昭和4年の地図によると、さらに南の御蔭通沿いにあったようですね。
その後、昭和26~28年頃には初代の位置に戻っていたようです。

元田中。
懐かしいです。
下鴨にあった剣道場(正武館)に通う際、よく通りました。
また、元田中の「バンバ町」には、高校時代の親友が住んでいました。

京福(自分の頃の通称)元田中下り駅は、東山通沿いで御蔭通りのやや北に位置していました。

大学(産大)にはバイクで通っていましたが、雨天だと、北白川仕伏町発3番のバスに乗り、元田中で乗り換え二軒茶屋まで歩いたのでよく覚えています。
その日の帰りは、出町まで出、加茂大橋東詰のバス停から3番で帰りました。

>> 鷹峯源光 さんへ

こんにちは。

やはり御蔭通り沿いにあった時期もあるのですね。
図書館ででも資料にあたってみます。

ありがとうございました。

>> 笠井君へ

こんにちは。

叡電の元田中駅は、いまも同じ位置にあります。駅の待合室などは
少しずつ手入れされていましが、出町柳行きのホームはまだ石畳が
残ったりして、昔の面影を残してますね。

下鴨神社にあった「正武館」は建物ごと取り壊されて跡地はマンションに
なりました。空手道場はどこかへ移転したのかな?

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