« 【京阪】大津線の特急色とラッピング電車を撮影 (その2) | トップページ | 【嵐電】の沿線紹介する漫画の第2号、売上の一部を震災援助に »

2012.10.13

秋の比叡山から坂本へハイキングに行ってきました。

ようやくハイキングしても、汗をかかない良い気候になってきましたので、また大原から比叡山・坂本・穴太へと行者道を歩いてきました。さすがにまだ山道も、紅葉には早いですが、すかすがしい秋の景色を満喫できました。

たくさん写真を撮ってきましたので、編集して本館のアルバムでも公開します。ブログは、ほぼテキストオンリーです。ちょっと読みづらいので、写真入りバージョンをお勧めします。コチラをクリック!!
*

Bd_susuki2 イラスト bluedaisy http://bluedaisy.rdy.jp/bd/
*

今回の出発点は、春に大原を散歩したときに、ここからも比叡山に登れますと紹介した京都バスの戸寺バス停です。時間は、まだ7時50分。山里はようやく朝日が差し込んだところです。天候は曇り時々晴れといったところ、まずまずのハイキング日和です。まずは登山口に向かいます。

2012_10_hiei03 バス通りをすこし北に向かって進み、「惟喬親王墓」の標識に従って山手に折れます。すぐに坂道になって民家の途絶えたところに、木彫りの人形がありました。立ち木に直接彫り込んであるみたいです。田んぼは、すでに稲刈りも終わり畦の彼岸花も勢いを失っています。できれば群れ咲くような彼岸花を撮りたかったのですが、ちょっと遅かったです。

数分歩くと、惟喬親王のお墓に着きます。親王は、文徳天皇の第一皇子として生まれましたが、母が紀氏の出身のため、藤原氏の反対のため、皇位に就くことが出来ず、悲劇の皇子のひとりに数えられています。後に近江や山崎・水無瀬などにも閑居されています。洛北から近江にかけては、親王の寓居の跡と伝えるところが点在しています。東近江の鈴鹿山地の山中では、親王が木地師の祖として崇められています。

季節ちがいですが、伊勢物語にも採られた
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(古今集 春53)
の有名な歌は、親王の渚の院(大阪府枚方市)での花見の宴で、在原業平が詠んだものです。親王は、今も、大原でも観光地化されていない山麓にひっそりと眠っておられます。

親王のお墓からいよいよ登山道に入ります。しばらくは林道が続きますが林道の終点で丸木橋を渡って山に取り付きます。のっけから急な上りが続いてひと汗かきます。この急な道は「ボーイスカウト道」と呼ばれます。ボーイスカウトの登山演習に使うからでしょうか?すこし登ってはちょっと休憩を繰り返し、最後の急坂は尾根に這い上がるように進んで、やっと大原バス停のほうから登ってくる、東海自然歩道のコースに合流します。

大原からのほうが距離は長い代わりにそのぶん楽なのですが、途中の惟喬親王墓にお参りしたかったので、急坂のコースを取りました。だいぶん歩いたように思いましたが、坂を登ったのはわずか20分程度でした。ここからは、ゆるい尾根道を峠まで進みます。

2012_10_hiei06 バス停からちょうど1時間で、仰木峠に着きました。現地の説明版によれば、その昔は近江からお米や藁製品(俵・むしろ)などが大原に牛馬や人力で運ばれたそうです。また婚礼があると花嫁さんも峠を越したそうです。実際に洛北と西江州は、結びつきが多く、先祖は大津市の北部の仰木や堅田地区というお家は少なくありません。また、かつてはお盆に大原と仰木の村人が比叡山の横川に集まって盆踊りをしたという話も聞きます。

峠から横川までは、「尾根道をゆるゆる行けばよいので楽ちん。」と、考えていたのは甘かった(^^ゞ 最初は快適な尾根道でしたが、水井山への分岐のあたりから急に階段道になって、標高573mの峠から一旦500m地点の沢まで降りて、また590mのドライブウェイの交差まで登るというアップダウンがあります。しかも階段ばかりで途中が雨で道が荒れて歩きにくくて、難儀します。下りの階段は、足に響きます。一段降りるたびに、「またこれだけどこかで登らなきゃいけないんだ(T_T)」と、イヤになってきます。沢から、今度はまた上ります。こちらも階段の段差が高くて、手すりにつかまって「ヨッコラショ」と云う感じで登っていきます。

 
ようやく、ススキに囲まれた一本杉のある、奥比叡ドライブウェイの交差付近まで登ってきました。やれやれです。休憩所で、一休み。車ならほんの数百メートル先に横川の駐車場があって、すぐ境内に入れるのですが、行者道は、さらにもうひとやま越える感じで、さらに階段道が続きます。ここで右足が痙攣して歩けなくなれました(^^ゞ 階段を利き足ばかり踏み込んだため、疲労が溜まったようです。マッサージすると収まりましたので、軸足を左に移してゆるゆると登ります。大原・仰木峠からの道と八瀬・西塔からの道が合流するこのコース最高地点(標高632m)に着きました。石仏様が背の順に並んで出迎えていただいけました。あとは、横川の境内まですこし降りるだけホッとしました。

2012_10_hiei13 大原から1時間45分ほど山道をあるいて、ようやく横川中堂に到着です。休憩ナシで大原からここまで1時間40分が標準タイムですから、まあ普通でしょう(^^)さすがに山奥なので、カエデもほんの少しですが梢が色つき始めてます。去年来た時は、夏の猛暑で色付きが悪くてガッカリしましたが、今年は真っ赤に染まってくれることを期待したいです。

今年の紅葉祭りは、下記の予定のようです。
2012年11月3日(土/祝)~2012年11月25日(日) 10:00~16:00

横川に着いたのはまだ9時半なので、境内はひとが少ないです。まずは中堂の聖観音さまに一年ぶりのご挨拶を差し上げます。続いて、元三大師堂に回って、慈恵大師(じえだいし)良源上人にもご挨拶をいたします。このおみくじの元祖を奉るお堂も参拝のひとは少なくて、お坊様とお話したり、(ここのお坊様は人生相談なども受けてくださるので、さすがにお話は上手いです)、護摩供養の準備をされているのを見せてもらったりして休憩させていただきました。全国から、ひっきりなしに参拝の予約の電話が入るのは、まるで有名なレストランのフロントみたいです(失礼)

参拝のひとが増えてきたので、元三大師堂をでて、こんどは恵心堂にまわります。ここも何度か紹介してますが、恵心僧都源信のゆかりのお堂です。恵心堂からさらに林道を10分ほど歩くと、恵心僧都のお墓があります。横川には何度も来てますが、ここまで足を伸ばすのは初めてです。まわりは横川で修行されたお坊さんのお墓が並んでいます。平安末期から真新しい平成の墓石まで、千年の歴史が眠っています。なにか部外者がやってきてはいけないようなところに来たような気もしました。

すこし林道を戻って、日本生命の慰霊宝塔の横から飯室谷に下っていきます。「この道は急坂だ。」とは聞いてましたが、林道を外れるといきなりものすごい急坂が谷底に向かって落ち込んでいます。分かれ道には小僧さんのイラスト付きの道標があって、「飯室不動まで2.5Km、西教寺まで4Km」かかれてますが、まだこれだけの山道を下らなければなりません(T_T) 途中は、崖の斜面を人ひとり歩けるほどの小道をつけたようなところや大木が倒れて道を塞いでいるのを乗り越えて下るところなど非常に厳しい道です。途中には、千年杉かと思うような大木も何本も生えてます。こんな大木の又には、天狗が住み着いているんでしょうかねぇ(笑)

半分ほど下ったところに、壊れかけた休憩所があります。その横に小さなお堂があって、観音様がやさしいお顔をして半跏思惟像のような姿で鎮座されています。どなたが、奉納されたのでしょうか?。さらに、九十九折の急坂をうねうねと下って、ようやく飯室不動堂の境内に下りてきました。横川からちょうど30分で降りました。

飯室不動堂は、酒井大阿闍梨さまが守っておられるお寺です。毎月28日のお不動様の縁日には、護摩供養にこられる信者さんで賑わうそうですが、普段の日は、ひっそりとしています。しばらく休憩していると、お寺の方が「お参りして行って下さい。」と勧めていただいたので、本堂で不動明王さまを拝ませていただきました。煩悩を断ち切るすさまじいお姿です。寺伝によれば、「その昔、慈覚大師円仁上人がこの谷で修行をされておられたとき、弁才天の十六童子のひとり飯櫃童子(ばんきどうじ)が翁の姿になって、大師に食事を奉仕されました。その甲斐あって大師は不動明王を感得されて、修行を成就されました。その御姿を刻み、御堂を建てて奉られたのが、飯室不動堂のはじまり。」とされます。

2012_10_hiei33 本堂の隣に、慈忍和尚(じにんかしょう)のお墓があります。このお坊様は、天台座主も務められた高僧ですが、「亡くなってから一つ目一本足の妖怪に姿を変え、修行僧を戒め、悪僧や怠け者を次々と下山させたという、云々・・・・・」という伝説が残っています。この一つ目小僧の話は、学生時代の比叡山でのアルバイトの時に、聞いたことがあります。ずっと忘れていて、お参りしたときも「どこかで聞いたようなお坊様のお墓だなぁ。」とは思っていたのですが、とくに案内板も無く、誰のお墓かもわからずに帰ってきました。ネットで調べてわかった次第。(ここまでお参りに来られる方には自明なんでしょうね。)一つ目小僧になったお坊様も、今は千年杉の梢が日光をさえぎる谷間に、静かに眠っておられます。東塔の総持坊とうお堂の入り口に「一つ目一つ足の行者」の板絵が掲げられています。慈忍和尚の化身とされています。

飯室谷をでてまた、山道を西教寺に向けて歩きます。途中の木橋の踏み板が腐って今にも抜け落ちそうになってるところがあって怖かったです。15分ほど歩くと、突然新興住宅地の中にでてきます。今までの山道とあまりに落差があって(笑)、道を間違えてしまい、途中で引き返すなどのハプニングありましたが、12時過ぎに西教寺に到着しました。途中の新興住宅地の片隅に石仏さまや石塔群がまとめられました。おそらくこの丘陵地が開発されたときに出てきた石造物をここに安置したのでしょう。それでも、前垂れをされて花も供えてあるところを見ると、近所の方か近くのお寺の方がお世話されているようです。中には、「心無い人間がいて、形の良い石仏を庭石などとして持って行く者がいる。」とも聞きます。そのような行為には、必ずや仏罰が下ることでしょう。 (合掌)

西教寺の総門を入ります。このお寺には、ずっと昔(まだ学生時代か社会人駆け出しの頃?)やはり、歩こう会に参加して来たような記憶がありますが、もう30年前後も前の事ですっかり忘れてます(笑) 今回が発参拝のつもりです。宗祖大師殿の唐門から眺める琵琶湖と下阪本の景色はすばらしかったです。この日は曇りでしたが、晴れた日はびわ湖の向こうの鈴鹿山地もくっきりと見えるのでしょう。

本堂は、江戸時代に紀州徳川家の寄進で建てられたもので、内陣には重文の丈六の阿弥陀如来さまが奉ってあります。本堂の前の広場には季節外れのガクアジサイがまだ咲いてました。「真盛上人『身代わりの手白猿』」の像もあります。「室町時代の明応2(1493)年に坂本で一揆が起きた時、真盛上人が首謀者だと誤解した比叡山の僧兵が同寺に押し寄せたが、誰もおらず手白の猿が鉦を鳴らしていた。これを見た僧兵は日吉山王の使いの猿まで帰依していると感じ入り立ち去った。という伝承がある。」と説明されてます。
2012_10_hiei29 本坊と本堂をむすぶ橋廊下は、太鼓橋になってます。地形のため斜めになったのは時々見ますが、下を通りやすくするためか、真ん中を高くしているのは珍しいです。裏の客殿には狩野派の筆になる襖絵や小堀遠州作の山水のお庭があります。明智光秀夫妻の木像やゆかりの品も展示されています。そのほかにも、二十五菩薩来迎の石像(阿弥陀様を中心に、楽器を持った菩薩様が極楽にお迎えに来られる様子を彫りだしています。)など、見るものは多いです。面白かったのは、展示室に猿に関する展示があるのですが、「猿が入りますので扉をきちんと閉めてください。」と貼り紙があったことでしょうか。比叡山には野猿がたくさんいますが、それが仲間と勘違いして入ってくるのでしょうかねえ(笑)

最後に、本堂横の明智光秀とその妻や一族のお墓(供養塔)に参ります。光秀は、信長の焼き討ちで焦土と化した坂本に城主として入城すると、このお寺の復興に努力しました。総門や鐘楼の鐘は坂本城の遺構と伝えられています。光秀は、本能寺の変で信長を倒した後、三日天下で山崎の合戦で秀吉に破れ、山科の小栗栖で土民に殺されたと伝えられます。その遺骸は坂本へ運ばれ、菩提寺に葬られたのだそうです。このあたりの話は歴史ファンならずとも興味の湧くところですが、深い詮索はやめておきましょう(笑)


午後の部から写真いりバージョンへ移られるかたは、コチラをクリック!!

西教寺には、まだまだ見るものがありそうだったのですが、時間が押しているので、食堂で、お弁当を食べて午前の部はお終いにしました。午後からは、「大津そろばん」の元祖と呼ばれる長谷川藤広の墓所があるのに因む、「そろばん地蔵」さまに見送られて、坂本から穴太の里の散策に出発です。

2012_10_sakamoto01 しばらくバス通りを歩きますが、すぐに旧街道に入ります。この道は唐崎で西近江街道と分かれて、坂本から比叡山へ登る山道に続く道です。ススキが、いま登ってきた比叡の山並みをバックに、刈り取りの終わった田んぼの畦道に揺れています。ここで、風景を撮るために(正しくは帰りに電車を写すために)、重いのに山道を担いできた(笑) デジイチを取り出します。山道では万一落として壊すのが怖いので一眼レフはよう使いません。この風景の質感を切り取るのは、コンデジでは無理ですね。彼岸花も、やはり終わりかけですが、大原よりはきれいに咲いています。前に日ノ岡峠ではアップで写しましたが、ここは群生を撮らないといけないでしょう。

しばらく歩くと、田んぼ道は終わって住宅街を抜けて、坂本の門前町に入ります。穴太積みの石垣に囲まれたお寺や神社や古い民家が点々と続きます。杉木立に守られた山寺も森閑として良いですが、里坊もまた風情がありますね。でも、このような小道でも結構車が通って、ゆっくりと景色を撮るのは手間がかかります。車の切れ目を狙って、電柱や道路標識もなるべく外して慎重にシャッターを押します。まあ、車社会では致し方ないですね(^_^;)

四つ角毎に、小さなお堂があって、ベンガラ格子や虫籠窓があってなんともいえません。延暦寺の事務所には、造花ですが軒に花が飾ってありました。なぜか洋花風なのが、純日本建築と、ミスマッチングです(^^) ようやく、見慣れた京阪坂本駅前の日吉大社の門前に出てきました。今まで歩いてきたお寺に向かう石の道標が立ってます。食事したばかりだったので入りませんでしたが、少し手前に、喫茶「拾穂庵」があります。元日吉大社の社家のお宅を改造したお店で、散策の休憩にお勧めと見うけました。

穴太積みの陰から見えた石坂線の踏み切りで電車の写真を撮ろうとしたのですが見事に車に邪魔されてしまいました(^_^;) いつもは、ここから電車で帰るのですが、今回はまだ2時前で早いので、旧街道をさらに唐崎方面に進みます。

坂本駅前からしばらくは、夏休みに無動寺谷を降りて坂本に出たときに、滋賀院門跡にお参りしたあとに駅に行くために通った道を進みます。滋賀院への参道を越えてしばらく行くと、榊宮社という神社があります。由緒書によれば、「日吉大社の境外百八社のひとつで、大己貴命を主神として奉っている。日吉山王祭のときは、大津の天孫神社から神様を迎えるための榊をこの神社に一時留め置くおくため『榊宮社』という。」のだそうです。写真をみると数メートルもある大榊を荷車に積んで、坂本から大津まで深夜に引き回すようです。山王祭は、4月中旬に行なわれるので、一度見てみたいです。

坂本の町はずれにも小さなお堂がありました。閉まっていてわかりませんが、地蔵堂かもしれません。前に頬焼地蔵や無動寺の道標が立っています。頬焼地蔵とは、坂本駅から日吉大社に行く途中の左手にある里坊寺院の妙行院の本尊です。「昔、地蔵様に雨よけの笠を差し掛けた猟師が、病気で死に地獄に落ちたとき、地蔵様が身代わりになって地獄の炎で火傷を負われながら猟師を救い出した。生き返った猟師が地蔵様にお礼参りに行くと、頬の半分が焼けただれていた。」と伝えられています。

2012_10_sakamoto13 今は、使われていないのでしょうけれど、半鐘がぶら下がっていました。その先には、大きな十一面観音様が、道路わきの民家の庭先のようなところに立っておられます。拝殿のような小屋はありますが、何も説明書きのようなものはありませんでした。とつぜん、道端に観音様が現れるとびっくりしますね(^^♪ またちょっと行くと、これも近寄れなかったので文字が読み取れませんでしたが、神社のお旅所があります。並んだ石仏の中にある双体仏が興味を引きました。このように数百メートル毎に、気になるものがあって、なかなか前に進みません。これが旧街道の面白いところなのですが(笑)

道は、石坂線の下をくぐって湖側にでます。坂本地区と穴太地区の村境になるところに盛安寺があります。このお寺も、明智光秀のゆかりの陣太鼓や桃山御殿風の重文の客殿や立派なお庭など見るところが多いのですが、なぜかお寺の方が居られず、拝観することは出来ませんでした。道路を隔てた隣に観音堂があります。この観音様も平安時代の作で重文です。いまは収蔵庫に納められてますが、ガラス越しに拝むことが出来ます。おそらく防犯装置はあるのでしょうけれど、なにか不防備に見えて夜陰に紛れて盗み出されるような心配がしてならないのですが・・・・・

たまたま、盛安寺を出たところで、京都駅の近くからきたという女の方が、「盛安寺の客殿を見られましたか?」と話しかけてこられました。私が「お寺の方がおられなくて、見れなかった。」というと、「やっぱりそうですか。」といって、穴太駅近くまでご一緒しました。この方も、仏像好きだそうで、最近に湖北から越前まで足を伸ばして来られて、連休中は、大津市内を歩かれているそうです。いわゆる歴女・仏像ガールさんですね。よく勉強されてて、いろいろとブログのネタになりそうな話題を提供していただけました。そのうちに何箇所は行って見たいです(^^) しばらく行って、高穴穂神社のところで、「ここから駅へ行って大津祭りを見学します。」ということでお別れしました。

この神社もその方に由来を教えていただいたのですが、なんと12代景行、13代成務、14代仲哀の3天皇にゆかりの志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)の跡なのだそうです。成務天皇の宮が近江にあったとされるのは、古事記などに書かれてますが、こんなところとは知りませんでした。やはり電車や車で通過するだけでなく、歩かないとダメですね(^^) また歩いていくと、高穴穂神社のお旅所のお地蔵様に一心にお祈りされてるおばあさんがおられました。この辺り方は、みな信心深いのでしょうねぇ。私も続けて、ここまで歩きとおしていろいろと見るべきものも見させていただいたことを感謝して、拝ませていただきました。

旧道が、西大津バイパスの唐崎駅への取り付け道路に取り込まれるところに、穴太地蔵堂があります。「伝教大師自作の地蔵菩薩」と彫られています。真偽は別として、この地区の方に昔から守られているのでしょうね。子供の守り神様だけあって、ヤクルトと子供用のコップが供えてあるのには、なにか感動しました。

2012_10_sakamoto21 ここから田んぼを突き切って、石坂線の線路に出ました。線路がちょうど西大津バイパスを越えるあたりに、棚田の風情の残っているところがありました。今まで、こんな風景を探していたのですが、最後に見つかりました。満足満足です。

それにしても坂本・穴太地区は、比叡山の門前町だけあって、文化財が豊富ですね。街道筋から見えるところだけでもこれだけネタが拾えるのに、裏道まで探しにいくと、いくらページがあっても紹介しきれないくらいです。

帰りの電車を待った滋賀里駅の近くにも、古墳や廃寺や大津京跡などまたまだ行ったことの無い史跡が点在しています。再訪を誓って帰途に着きました。
*

長文を読んでいただきまして、有難うございました。

ここに掲載した以外の写真は、編集して本館のアルバムで公開します。文章の内容は、ブログと同じですが、写真入りバージョンを見たい方は、コチラをクリック!! してください。
*
(次は、最近読んだ本の紹介です。)
pinboke_entry

« 【京阪】大津線の特急色とラッピング電車を撮影 (その2) | トップページ | 【嵐電】の沿線紹介する漫画の第2号、売上の一部を震災援助に »

コメント

棚田が残っているんですねー!素敵でーす。山の手前のススキ・・・秋感じますー。

>> キハ58さんへ

この棚田も、まわりはバイパス道路や線路や住宅地に囲まれて、
ここだけポツンと残ってました。しかも回りの田んぼがすでに
稲刈りを終えてるのに、黄金色のまま。

まるで、見せるために作っているようにも感じました。
それは、それで、いいんですけどね。

比叡山と言うとケーブルカーか、延暦寺行きのバスでしか行けないという思い込みがあったんですが、いろんなハイキングコースがあるんですね。目からうろこが落ちました参考にさせてもらいます~

坂本もいつかゆっくり見たいと思ってますが、
お猿さんまで帰依するくらい、慈悲深いお寺だったのですねえ。
何故か高野山麓や犬鳴山麓のワンコを思い出しました

>> slowmotion さんへ

ケーブルやバスやドライブウェイを自家用車であがるのは、いわば観光寺院としての
比叡山ですね。

去年くらいから紹介している山道は、1200年前に比叡山が開かれて以来の修行の
道です。かなりきつい所もありますけど、歩き甲斐のある道ですね。

比叡山は、京都の鬼門(北東の方角)に当たっているので、鬼門除けのお猿さんの
信仰が昔からあるみたいですね。いまでも山道でたまに野猿の群れをみることが
あります。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 秋の比叡山から坂本へハイキングに行ってきました。:

« 【京阪】大津線の特急色とラッピング電車を撮影 (その2) | トップページ | 【嵐電】の沿線紹介する漫画の第2号、売上の一部を震災援助に »

フォト
2023年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ